フェイスブックをやり始めてから日録(ブログ)が以前のように書けなくなった原因として、
「日録」という言葉に囚われているのが大きいのではないか・・・と、ふと思うことがあり。
(ちなみに日録/ブログは写真学生の頃にホームページを作ってからずっとやってるので、かれこれ25~26年は経ってて。途中に一度思うところあって完全に消去しちゃったので、今のにしてからは16年ですが。昔はもう少しマメに書いてたと思うんですけど。改めて昔のを読んでみると、そこまでマメに書いてるわけでもないか、。)
書きたい時にどんどん書く方式にしてみようかと思います。試しに。
「日録」にこだわっている部分があるのは、写真の本質はやっぱ淡々とした「記録」なので、
淡々と日々の事象を記録していくことは、写真の人としてはやっぱ大事だろう、という感じはするからです。
なお、記録していくべき事象は、日々の出来事に限らず、
もっと大事なのはそこに立ち現れる自分の心や感覚の動きを視て記録することであろうとは思うところ。
*
数日前に改めて眼鏡を作って、右目の近視と乱視を少し補正して特に中~遠景が細かく視えるようになってから、
風景というか、目の前の世界の見え方がちょっと変というか妙にフワフワしてまして。
やたらとなんにでもカメラを向けて写真を撮りたくなってシャッターを切ってます。
なんというか、見え方1つでこう変わるっていうのも、いい加減なもんだなとは改めて思いつつ。
人間はちょっとした切っ掛けで物事の見え方も考え方もコロコロ変わるもの、、とは、過去、浄土真宗を学んでいた時にもとても共感していた点ではあって、
そもそも一番信用できないのは自分自身だとはいつも思っている事ではありますが。
(とはいえ、最も信じているのは自分の感覚でもあって。でもそれは、人間とはそもそも信用に値しないもので、その中で間違ったり当てにならなくても「仕方ないな」と納得できるのは自分の決めた事だから、というような話でもあり。)
そんな風に写真を撮ることにどれほどの意味があるのかな、という気もしないではないのですが。
でも「写真行為」というのはあくまでもセレクトをする部分にこそあって、写真を撮る行為自体は眼が脳に視覚情報を伝えるように機械的にセンサーに情報を送って溜めていくだけの話だから、そこの意味云々はそもそも考えなくてもいいのでは、と思ってみたり。
「日録」という言葉に囚われているのが大きいのではないか・・・と、ふと思うことがあり。
(ちなみに日録/ブログは写真学生の頃にホームページを作ってからずっとやってるので、かれこれ25~26年は経ってて。途中に一度思うところあって完全に消去しちゃったので、今のにしてからは16年ですが。昔はもう少しマメに書いてたと思うんですけど。改めて昔のを読んでみると、そこまでマメに書いてるわけでもないか、。)
書きたい時にどんどん書く方式にしてみようかと思います。試しに。
「日録」にこだわっている部分があるのは、写真の本質はやっぱ淡々とした「記録」なので、
淡々と日々の事象を記録していくことは、写真の人としてはやっぱ大事だろう、という感じはするからです。
なお、記録していくべき事象は、日々の出来事に限らず、
もっと大事なのはそこに立ち現れる自分の心や感覚の動きを視て記録することであろうとは思うところ。
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数日前に改めて眼鏡を作って、右目の近視と乱視を少し補正して特に中~遠景が細かく視えるようになってから、
風景というか、目の前の世界の見え方がちょっと変というか妙にフワフワしてまして。
やたらとなんにでもカメラを向けて写真を撮りたくなってシャッターを切ってます。
なんというか、見え方1つでこう変わるっていうのも、いい加減なもんだなとは改めて思いつつ。
人間はちょっとした切っ掛けで物事の見え方も考え方もコロコロ変わるもの、、とは、過去、浄土真宗を学んでいた時にもとても共感していた点ではあって、
そもそも一番信用できないのは自分自身だとはいつも思っている事ではありますが。
(とはいえ、最も信じているのは自分の感覚でもあって。でもそれは、人間とはそもそも信用に値しないもので、その中で間違ったり当てにならなくても「仕方ないな」と納得できるのは自分の決めた事だから、というような話でもあり。)
そんな風に写真を撮ることにどれほどの意味があるのかな、という気もしないではないのですが。
でも「写真行為」というのはあくまでもセレクトをする部分にこそあって、写真を撮る行為自体は眼が脳に視覚情報を伝えるように機械的にセンサーに情報を送って溜めていくだけの話だから、そこの意味云々はそもそも考えなくてもいいのでは、と思ってみたり。
# by m_sakamaki | 2024-08-05 19:30 | 写真