判りやすさ」と「曖昧さ」。メモ。

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つい今ほど帰ってきました。
高円寺にて、友人3人のジャンベ(&ドゥン)と、ダンサー3名の踊りのコラボのライブ。
3人それぞれのソロダンスが特に良かった。

ドラムも気負いのない、いい演奏だったなぁ、というのが素直な感想。
細かいことを言えば課題はそれぞれあるでしょうが。
お疲れさまでした!

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ダンサーさんのソロダンスを見ながら、「判りやすさ」と「曖昧さ」のことをいろいろ考えてました。

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「ベタな判りやすさ」の問題点っていうのは、その判りやすさに自分の意識が絡め取られてしまって、そこからの広がりも深まりも期待しにくいところだと思う。

でも「曖昧さ」だけでは、伝えたいようには伝わらず。

「判りやすさ」と「曖昧さ」のバランスをどう取って行くべきか、という話で。

「写真」で「作為を排除していく」っていうのは、このバランスをどこで取っていくかっていう、その作業の1つなのかも。

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仕事の写真の場合、「判りやすさ」と「曖昧さ」のバランスは、その写真の使われ方によって決まってくる。

その媒体において写真をメッセージの象徴として使うのか、
デザインの一材料として存在するのか、
純粋に写真としての何かを期待するのか、等々。

媒体等の意味、方向、等々、理解をすれば、自ずとそのバランスを取るべき位置がハッキリしてくるので。
仕事の写真の場合、その辺で悩むことって、あんまり無いな。
改めて考えてみると。

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音楽とか踊り、
写真とかデザイン、っていうのは、
それ自体が結構曖昧さを持っていると思うんですけど。

でも、「言葉」っていうのは、ものすごくイメージと結びつきやすくて。もう、、判りやすいっていうか。
言葉が入ってくると、言葉の強さ、曖昧さの無さに思わず驚くというか。

いやはや、言葉って危険なもんだな、と。

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写真を言葉で表現するということ。

写真は言葉で表現するのはナンセンス、という考えは、1つあるんでしょうし、自分もそう思ってたりしますし。

言葉で写真を縛ることには、どんどん写真がつまんなくなっていく危険性みたいなものも感じたりするんですが。
(「言葉で写真を縛る」っていうのは、「言葉で説明しやすい判りやすい写真を撮る」という感じの意味で言ってます。)

曖昧なまま放置しておいていいのか、というと、そうも思っておらず。
危険性を理解しつつやるんだったら、判りやすさと曖昧さのバランスを取るための1つのアプローチとしては有りなんでは、ということも思ったりしているのです。

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なんでソロダンスを見ながらそんな話になるのか、という辺りを、
日録読む人のことを考えて本当は書くべきなのかも知れませんが、
そこまで書いてるとあまりに長くなりそうなので、チラ裏のメモ書きとして。
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by m_sakamaki | 2010-05-26 18:04 | 写真 | Comments(0)